Irish coffee

Friday, April 27, 2012

ルート・アイリッシュ

ネタバレがあります。ネタバレOKの方のみどうぞ




友人と見てきました。



アイルランドなまりの英語がなつかしい響きでした。ケン・ローチ監督の入魂の一作だと思いました。



前作「麦の穂を揺らす風」も印象深かったですが、こちらは、さらに暴力にまみれた社会の現実を反映しているように思えました。主人公ファーガスの目から見た民間軍事会社の内情と、友人フランキーの死に対する無念さ、何としても真実を探り出そうとする彼の執念のようなものが随所に見られました。



それぞれの登場人物の描写もリアルで面白かったです。アメリカ兵士ではなく、イラク人兵士や民間人に焦点を当てられるのは、ケンローチ監督のヨーロッパ映画ならではと思いました。コントラクター(民間兵)の葬式は、国葬としてもきちんと扱ってもらえない、日本の非正規社員の扱いにも通じるところがあると思いました。



暴力の描写は、目をそむけたくなるようなシーンも一部ありましたが、アイルランドのルーツを持つ英国人の現実の描写に近いのかもしれないと思いました。ファーガスのレイチェルへの愛情表現は、愛情なのだろうか?自分から、「自分をぶってくれ」と頼み、彼女がそれに答えるのは暴力ではないのだろうか、お互いの合意の上ならOKなのだろうかといろいろ想いをはせました。



社会が暴力的である以上、人々が暴力的になるのは避けられないことと思います。自分も含めて。



彼は、綿密な調査を通し、フランキーを殺した張本人を見つけ出したと思っていたのですが、それは、彼の思い込みと途方もない暴力及び軍事指令17号によって、勘違いであることがわかってしまいます。真実を告げたのは、実際に戦場にいた同僚ジェイミーでした。



軍事指令第17号は、民間軍事会社の社員は刑事処分の対象にされず、兵士たちがぬれぎぬを着せられてしまうものでした。これがもとで、イラクの戦場の無法化や民間人の犠牲が増えているのではないかというのがケン・ローチの主張だと思いました。



ファーガスは、フランキーを殺したのは、同僚のネルソンだというネルソン自身の虚偽の告白によって、彼を殺してしまいます。本当の犯人は上部にいる、自分たちは最下層で対立させられているにすぎないということは、17号のせいで、わからなくさせられていたのかもしれないと思います。



現実なんてそんなものなのかもしれないと思いつつ、怒りを感じずにはおれませんでした。戦場の非人間性、PTSDに悩まされる兵士たちのあり方も丁寧に描かれていると思いました。



正義を貫いたフランキーは戦場で殺され、彼の報復をしようとしたファーガスは、3人もの人を殺してしまう。指令を出したウォーカーやもう一人の犯人、ヘインズを殺したことは、正当防衛だと思います。PTSDによるものだと理解できます。殺す以外にも方法はあったかもしれない、でも、それができないのが彼の状況における彼らしさなのかもしれないと思います。



彼は、間違って人を殺した報いからか、自らの命を絶ちます。そうすることで決着をつけたかったのか。彼が想いをはせた地がニュージーランドではなく、オーストラリアだったことに、英国人としての帝国主義思想を少しだけ感じました。エンディングの曲がイラクのミュージシャン、ハキムのものであることは、共感が持てました。



子どものころに、オーストラリアに想いをはせていたのは、アイルランドからの移民船だと思い込んでいたけれど、実はマージー川の遊覧船だったのは、私の勘違いでした。彼は、英国を出ることなく亡くなったのです。



殺されたイラク人の子どもたちのために、お金で決着をつけようとしたこと、それもまた、子どもたちの母親からすれば、傲慢な態度だったのかもしれません。そのことも丁寧に描かれていると思いました。



自分の中の似たような部分を認めつつ、イラクの民間人の立場に立って物事を考えたいと思いました。



ルート・アイリッシュ

http://www.route-irish.jp/



ケン・ローチの息子、ジム・ローチの作品「オレンジと太陽」の主人公は女性。こちらも機会があれば見てみたいと思っています。

http://oranges-movie.com/



Thursday, April 12, 2012

重度障害者の裁判

伊藤晃平さん裁判、画期的勝利的和解

http://tokuyamad.exblog.jp/17384117/

ブログを書いてくださった方のコメントです。

「障害者なんか社会のお荷物だ。お恵みを受けて黙っていれば良いんだ」「稼働年齢で生活保護を受けているようなのは怠け者だ、ビシビシしごいてやれとまで考えている人は少ない。

「障害者に親切にしたい」「ホームレスへの炊き出しに参加したい」という”善意”を持っている人はたくさんいます。 素朴な”善意”は、時間的空間的社会的に分断されて、なかなか社会を変える力になっていかない、それをどう突破していくのか? この課題は、なかなか重いです。

この裁判(原告・支援者)に対して、本来は障害者福祉に理解のあるはずの人々がネガティブキャンペーンを張りました。 (曰く「M福祉会は民主勢力だ、その民主勢力を被告とする裁判はケシカラン、そんなのを支援するのは民主勢力潰しの盲動だ」) まだその後遺症は大きく、この歴史的和解の意義を広めきれていません。

「M福祉会」がどうこうの問題ではない、もっともっと大きな話、次元の高い話なのだ、憲法原理そのもの(特に13条、14条、25条)なのだ、ということを伝えたいと思います。 そのことによって「民主勢力潰しの盲動だ」という間違った認識が洗い流されることを期待しています。

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一部の不正を行っている人たちがさも、大半であるかのように取り上げるメディアのあり方には問題があると思います。 私の周りでも、同じ問題を共有する仲間の中で考え方の違いから分断が起こっている状況もあります。一方で、大きな共通項でまとまってつながっていくことは、これからの若い世代の中では少しずつできていけるような希望も持っています。